新聞書評への恣意的感想

さようなら、私の本よ!今回は先に予告していたとおり、大江健三郎の新作 『さようなら、私の本よ!』講談社)の三人の書評子、三浦雅士茂木健一郎高橋源一郎の取り挙げ方を読み比べてみたいと思う。ちなみにこの三人は評論家、脳科学者、小説家というスタンスでの特長をもっていると言えるかも知れない。
最初に本書の書評を掲載したのは茂木であり、2005年10月17日掲載の読売新聞であったが、この掲載順位は主に各新聞社の都合によることなので、たいした意味はないし他の書評子が先行する書評を参照はしていないと思われるが、掲載文字数は書評の書き方に大きく依存することは確かだろう。
その意味ではもっとも有利なのは、毎日新聞三浦雅士である。他の二人が800字ほどのスペースしかないのに比して、三浦は2000字強のスペースが提供されているからだ。2000字あれば、ピンポイント書評を超えて書評子の蘊蓄が発揮できる分量だと思うが、如何だろうか。常日頃から思っていることだが、毎日新聞の書評が全体的に面白くレベルが高いのは、この文字数の多さに理由があるのだと思う。
さて前置きはそれぐらいにして、本題に入ろう。
たまたまか大江作品に触発されたこの三人の書評には、それぞれの持ち味を表象したキーワードがあることに気づく。(★印のURLをクリックすると原文が読めます。)

茂木健一郎:小事と大事
三浦雅士:静謐と過激
高橋源一郎:顰蹙

茂木健一郎 の書評は書き出しで
「見慣れたもののように思える対象の前で、私たちはつい油断する。『さようなら、私の本よ!』は、一見、作者自身の生活に取材した「私小説」のようでありながら、それとは全く別の「何か」なのではないか。読んでいる間、そんな思いが脳裏を離れなかった」
その「何か」を
「世界の大事もまた、身辺の小事の中に反映される。愛読した本を処分し、自分自身の作品の翻訳さえ廃棄する古義人にとって、世界はどのように映るのか。(……)小事と大事の交感の中にこそ、文学固有のリアリティはある。(……)その大きな眼球に映る様々なものは、「私」事でもあり、大世界でもある。「私小説」のようでありながら、それとは違う何か。何かを綻ばせつつ新しいものに至る道を拓(ひら)いたのは、「老人の愚行」だったのである」
と証してくれる。脳と仮想『脳と仮想』の著者である茂木においても、文学固有のリアリティは潜在的/可能的なものとして切実であるように思える。
http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20051017bk01.htm


■次ぎに三浦雅士 の書評に移ろう。
「静謐にして過激な小説。じつに面白い。さまざまな意味、さまざまな次元で興味深い」
と書き出す。ここに本書のすべてが集約されているという評論家の核心を込めた書き出しが、清々しい。そして「さまざまな意味、さまざまな次元で興味深い」理由を末尾で箇条書きにして列挙してくれるという、なんという親切ぶり。予備校の講師に転職してもいいぐらいだ。
しかし三浦は、かつてユリイカ」「現代思想の名編集長であり現在は「大航海」の編集主幹でもある、名うての評論家である。そして
「世界の現状は根本的なところで大きく間違っているのではないか? 誰だってそう考えるときはある。とすれば、それこそ小説の中央に位置すべき問いではないか? 身を賭して世界に否を唱える人々に、私たちはどう答えることができるのか? /大江健三郎は時代の問いにつねに真正面から立ち向かう。それがこの小説家の流儀なのだ。だから老いを語っても若々しい。小説家自身がいうように、それはいくぶんか滑稽なのだが、しかし滑稽でない思想など存在しない。時代の風潮はめまぐるしく変わり、人々はその風潮にあっというまに染まってゆく。抗うものは滑稽を免れない」
と諭してくれる。「滑稽でない思想など存在しない」とはまさにドンキホーテだが、僕などは厚く厚く頭を垂れて共感します(>三浦センセー)。
そして三浦は生真面目にも小説の構造を次のように語ってくれる。
「表題はナボコフの『賜物』に、主題はドストエフスキーの『悪霊』に、古義人と繁の二人組みという手法はセリーヌの『夜の果てへの旅』に関連する。ドストエフスキーにおける看護婦的人物の分析など、小説論としても面白い。通奏低音として流れるのは、老いを主題にしたエリオットの『四つの四重奏曲』。とはいえ、強烈に感じられるのは古義人と繁が万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)万延元年のフットボール』の蜜三郎と鷹四の変容にほかならないという事実。大江健三郎の読者ならずとも四十年近い歳月の流れに感慨を覚えずにはいられない。大江健三郎取り替え子 (講談社文庫)『取替え子』憂い顔の童子『憂い顔の童子』そしてこの『さようなら、私の本よ!』をまとめて「チェンジリング三部作」と呼んでいるが、最終作にいたって自身の小説の手法がもっとも鮮明に描かれた」
なるほど本書が「小説の小説」であり、大江の永年のテーマが「反復変奏」されていることを知ると、若い読者も三浦の導きによってあらためて読み始めるかも知れない(原文では『取替え子』となっているが、『取り替え子』が正しい。校閲記者はちゃんとチェックしましょうね!)。
僕的には万延元年のフットボールの次ぎに『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』が好きなのであった。そして僕的に印象深いのは 「日本の保守政治家や、やはり保守派の論客やらがよくいう嚇し文句に、このままでは日本は滅びる、というのがあるだろう? しかし胸のうちでは連中も、そんなことは夢にも思っちゃいない。日本人には、もともと滅亡の発想はない。これが、おれの観察報告だ」 (p68)という椿繁のフレーズ、これはそのまま大江健三郎の意見のように思えてしまう。「滅亡の発想」のない人たちは、未来・現在・過去に対しても傲慢な態度をとり続けるだろう。
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/gakugei/dokusho/archive/news/2005/10/30/20051030ddm015070160000c.html


■最後に、高橋源一郎 の書評を取り上げる。いくぶん黒猫房主のガソリン(ビール)が切れ気味なのだが、もう一踏ん張り(苦笑)。
高橋はおそらく800字の書評でキーワードを、三浦の「静謐と過激」に対して「顰蹙」を対置したと、根拠はないがそう思う。というか高橋じしんが「スキャンダラスな小説家」ならではの視点というべきかも知れない。
高橋の書き出しは、まさに端的である。
大江健三郎は、現存する、最大の顰蹙作家である、とぼくは考える」
と大江の作家としての現在性を射抜いているが、同時に三浦雅士「静謐にして過激な小説」という書き出しに見事に照応している。続けて
「さらに顰蹙をかうのは、その作品だ」
と畳み込み、
「だが、真に顰蹙をかうべきなのは、もっと別のことだ、とぼくは考える」
とさらにテンポよく展開する。
そして小説家・高橋は小説の神髄を語ろうとする。
「この小説は、読者の前で揺れ動く。過激な煽動と真摯な問いかけと悲痛な叫びに滑稽さ、そのどれが「本気」なのか、と読者を悩ませる。だが、小説とは、そういうものではないのか? 苦しみつつ、作品の解読を通して、作者さえ知らないものを見つけ出すのが、小説を読む、ということではないのか」
「本気」は「本当のことを云うおうか」(『万延元年のフットボール』の8章でエピグラフに遣った谷川俊太郎の詩句)と響きあっているのかも知れない。そして最後に大江が「顰蹙作家」であることの真の意味が、まさに証される。
「だとするなら、小説への信だけは失わぬ大江健三郎は、世界がどのように変わっても、他の作家たちが小説を書かなくなったとしても、ただ一人、小説を書き続けるに違いない(なんと迷惑な!)。それ故に、ぼくは、彼を最大の顰蹙作家と呼ぶのである」
と絶賛して結ぶのだが、高橋じしんはどうなのか?
ところで高橋の書評は毎回小気味よく「うまい」とは思うのだが、はたして「よい」書評だろうかと疑問が湧く。僕らは毎度、書評にかこつけた高橋の文学論を読んでいるように思えるのだが……。
http://book.asahi.com/review/TKY200511080298.html
★追加記述★今朝10時半頃に、三浦雅士高橋源一郎の書評感想部分を修正加筆しました。